こんにちは、taikiです。
少し前になりますが、学校の体育はつまらないけどジム通いがめちゃくちゃ楽しいという意見がタイムラインを賑わしていました。
ジムに通い始めたんですが、できなくても責められず罵倒されず恥ずかしい目にもあわず、ただ褒められながらやる運動って超楽しい。なにこれ。もっとやらせてくれ。
— ぬえ (@yosinotennin) 2018年7月1日
ジムに行くようになってわかったのは、「俺は運動が嫌い」ではなく、「小学校から大学まで行われた体育教育が嫌いだった」ということである。自分で好きな様に適当に見栄を張らず自分の設定した負荷で、のんびり筋トレしたり走ったりするのがこんなに面白いとは思わなかった。
— 鐘の音@日曜モ52a白瀬咲耶本 (@kanenooto7248) 2016年3月2日
ジムのランニングとか筋トレって競争の要素ないし、怖い体育の先生もいないし、本当いいですよねえ。/ジムに通い始めたら、できなくても罵倒されたり晒されたりせずただ褒められてする運動が超楽しかった「運動嫌いだった私が11年もジムに通い続けてる理由がこれ」 https://t.co/uEV6oWZ3aX
— 佐々木俊尚 (@sasakitoshinao) 2018年7月2日
今回は、学校の体育の授業がつまらなかった・苦痛だった人達がなぜジム通いは面白いと感じたのかを掘り下げて考えてみようと思います。
最後は柔術に強引に結びつけるので最後まで読んでね。
学校体育が楽しくない理由は常に人と比べるから
学校の体育が楽しくなかったという意見に多くの共感が寄せられているということはそう思う人が多かったということでしょう。
私もどちらかと言うと学校の体育は面白いと思ったことがありません。
体育に限らず学校教育が面白いと思ったことがある人はどれぐらいいるのでしょうか。
その核心に迫ろうと思います。
学校教育の基本コンセプトは他者と競うこと
日本の学校教育(といっても海外の教育を知りませんが)は、勉強にしても体育にしてもある一定の基準で優劣をつけたがります。
常にヨコにいる他者と自分との比較の中で生きていくことを意識させられます。
与えられた一定の基準の中でヨコにいる他者に比べて勝っている子は楽しいと感じるかもしれません。妙な優越感を勝手に感じる子もいるでしょう。その妙な優越感の表れが、勉強面ではエリートの鼻持ちならない態度だったり、体育面では体育会系のマッチョイズムではないでしょうか。
逆に与えられた一定の基準の中で冴えない子達は劣等感を抱えることになります。
もちろん奮起して頑張る子もいるかもしれませんが、勉強や体育といった一定の基準として用いられた指標の為に、本質的には楽しいはずの勉強や体育も嫌いになってしまうというのが学校体育が楽しくない理由なのではないでしょうか。
できない子に待っている「怒る」という仕打ち
本論に入る前に、「怒る」と「叱る」という言葉について定義しておきましょう。
「怒る」=感情的に責めること
「叱る」=論理的に諭し、修正を促すこと参考:塾屋のホンネ(※まだ未完成のサイトのようですが、面白いので今後に期待!)
言葉の定義は、引用元のサイトがいちばんしっくり来たので使わせて頂きました。
残念なことに勉強ができない子は「こんなこともわからないの?」と怒られ、体育ができない子は「こんなことも出来ないの?」と怒られます。
直接感情的に怒られなかったとしても「こんなこともできないの?」オーラを全開に出されて威圧されたと感じたことがある人は少なくないでしょう。
それは教師・生徒間だけでなく、生徒・生徒間でも下に見る傾向が強いです。
残念なことに、勉強が出来る子が勉強が苦手な子を下に見るよりも、体育が出来る子が体育が苦手な子を下に見る方が落差がある気がします。(俺調べ)
いざとなったらフィジカルで勝てると思うからでしょうかね。
そんな様子は、ジャイアンから見たのび太の落差と出木杉君から見たのび太の落差の違いを想像して頂ければわかるのではないでしょうか。
そんな風に見られていたら、のび太が運動を楽しいと思う日は来ません。
柔術道場やジム通いが楽しいのは常に過去の自分と比べるから
一方で学校の体育がつまらなくてもジム通いや道場通いが面白い理由は何でしょうか。
競う相手は昨日の自分
学校教育がヨコいる他者との比較であるならば、ジム通いは過去の自分とのタテ比較です。
本来ヨコを意識するべきなのは、自分が生活の糧を得るであろう仕事ぐらいじゃないでしょうか。その仕事であっても学校教育のような単純な比較ではなく、仕事が被らないためにチラッとヨコを見て自分の領域を探るマーケティング的な比較程度です。
本来は競争しなくてもいい領域では、自分の中で少しずつ進歩すれば良いのです。
ジム通いが楽しいと思える理由は無駄な競争を強いられることもなく、昨日の自分と向き合えることじゃないでしょう。新しい自分になるために時間と労力を費やして、その変化を実感することが楽しくないはずがない。
柔術道場通いも同じです。格闘技こそ他人と競い合うイメージだけど実は違う。
強くなればなるほど、自分の弱点を埋めて、得意技を磨きながら、弱い自分と向かいう合うことになります。
トップ選手になればなるほどタテの世界であることはトップアスリートのインタビューを見れば一目瞭然です。
できない子に待っているのは「叱る」という愛
更に言えば、ジム通いが楽しくなる一番の理由は(感情的に)怒られないことじゃないでしょうか。
インストラクターの皆様は、基本的には怒りません。
ただし、叱ることはあります。
先に述べた定義に従えば、叱るとは「論理的に諭し、修正を促すこと」です。
要はもっとこうやったら良くなるから、改善して上を目指しましょうと言ってくれるわけです。
「叱る」というと響きは若干ネガティブですが、物事をもっと良くするために論理的に諭した上で、修正を促すわけですから前しか向いていません。
弱い自分を受け入れることさえ出来れば、弱い自分が良くなるアドバイスは誰だって耳を傾けたくなるでしょう。
ジムや道場が楽しい理由は、感情的に怒られるのではなく、愛を持って叱られる(≒改善提案をもらう)ことじゃないでしょうか。
ジム通いが楽しいと思えない方は、自分のことを叱ってくれる先生に恵まれていないのかもしれません。残念ながら「怒る」と「叱る」の違いがわからない人は(学校の先生よりは少ないにしても)民間のジムや道場であっても一定数はいらっしゃると思います。
ジム通いに限らず何事も続かないと思っている人は、この視点で自分と相性の良い叱ってくれる先生を探すことをおすすめします。
まとめ:自分の変化を感じながら新しい自分を積み上げよう
我々日本人は、幼い頃から他者との競争を意識せざるを得ないヨコ比較の教育を受けています。人生のある時期においてはヨコ比較の教育にも良い面はあるのでしょうけれど、なるべく早い段階でタテ比較の価値観に気付けるとその後の人生は楽になると思います。
そんな生きていく上でとても役に立つような考え方や価値観は実は学校ではなく、身近にあるジムや道場で学べます。
体育の授業がつまらないと思ったり、運動がイマイチ好きでない人もジムや道場通いを通じて、自分の変化を感じながら新しい自分を積み上げてみませんか??
新しい自分を積み上げた先に、見たことのない景色が見えるはずです。
始めるのに遅いなんてことはありません。
30過ぎてブラジリアン柔術にハマって、毎年ラスベガスまで遠征して試合するようになってしまった私が言うんだから間違いない!!
ぜひジムや道場に通ってその楽しさを実感してください。
以上「学校の体育は面白くないけどジムや柔術道場が楽しめる理由をわかりやすく独自理論で説明する」でした。
研究所からは以上です。
ちなみに、去年のラスベガス遠征日記はこちら。
コメント